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VISUAL ROCKETS −今日のアメコミ−

STILL TALKIN' ABOUT COMICS

V FOR VENDETTA (Vertigo, 1988-89)

 誘い水の第2回も有名どころを扱うことにした。本日扱うのは邦訳版も出てりゃウォシャウスキー姉妹による実写映画もある『V FOR VENDETTA』でござい。オキュパイ運動やらでマスクもお馴染みになりもしかしたら前回の『ASS』より有名かも。私自身、アメコミを読み始めて比較的初期に手に入れ、最も多く繰り返し読んだ作品の一つである本作には思い入れがある。


邦訳版(Amazon): V フォー・ヴェンデッタ (SHOPRO WORLD COMICS)


 全体主義に陥り警察国家と成り果てた架空の英国ロンドンを舞台に、無政府主義者のテロリスト”V”の暗躍と、ひょんなことから彼と行動を共にすることとなった少女Eveyの姿を描く本作は、アメコミ(実際にはアメコミではなくブリティッシュ・コミック−ブリコミとでも呼んだ方が正しいのだろうけど)を読む者なら誰もがその名を知るライターAlan Moore初期の代表作。今や伝説的アーティストとなったDavid Lloydの絵も全編に冴え渡っている。夏目漱石は『草枕』において『端粛とは人間の活力の動かんとして未だ動かざる姿と思う。』と著していたが、そういう意味ならLloydの絵こそ端粛と呼ぶにふさわしいと思う。


 本作が1980年代初期の英国という時代と風土だったから生まれ得た作品であることは間違いないだろう。本作の特徴は”V”というシンボリックな存在がヒーローではないところにある。
 アメコミはヒーロー物だけじゃない。これは事実だ。けれど一方で語弊を恐れず言うならば、多くのアメコミ作品にヒーロー的要素が浸透してしまっているのもまた事実かと思われる。つまり、主人公の動機、過程、結果のいずれかもしくは全てにおいて”不特定多数の救済”を意識している作品がかなり多い。無論、それが全てであると言い切るつもりはないものの、MARVELやDCのスーパーヒーロー物以外でも、これをアメコミ全体に行き渡る一つの大きな傾向として指摘することはできよう。とりわけ本作のように社会的変化を促す主人公と大衆との関連性を描く作品においては尚更だ。

 そんな中、MooreとLloydはややもすると英雄になりかねない本作の主人公”V”を徹底してそうは扱わない。”V”の行動原理は万人が正義と呼べる者でないし、目的のためには殺人やテロ行為を辞さぬ彼の態度もまた然り。第2部の中心であるEveyへのショック療法はBatmanでも行うまい。そして更に物語終盤でFinchが述べている通り、彼のもたらしたものは救済とまでは言えず、あくまで民衆の解放に止まっている(解放は救済と同義ではない。ネグレクトを教育とは呼ばないように)。
 MooreとLloydは”V”をありふれた英雄などではなく、あくまで「偏った個人」として描こうとしている。その意図は例えばロンドン市民の前へ姿を現し煽動する時にも見て取れよう。ビルの上で両腕を掲げる彼の姿は影に包まれており、紛いなりにもSupermanのような救世主の描写とは言い難い。


 キャラクターから1つの性質を排除することはコロンブスの卵であり、ともすれば前例がない分だけ新たな性質を加えることより難しい。そのことは例えば日本のアニメで綾波レイのようなキャラクターを考えて貰えればわかりやすい。彼女は物語において無個性を貫くことで、逆に視聴者へ絶大な印象を与えた。
 同様に”V”も読者に強烈な印象を残すキャラクターでありながら、実のところ彼自身についてはほとんど描かれていない。彼の発言には引用が多く、舞台役者のような立ち居振る舞いにはどこまで彼の本心が反映されているのか判然としない。心理が描写されるのはEveyやFinch、あるいはSusanなど周囲にいる者ののみだ。その出自でさえ信憑性が曖昧な部分を残す。
 ”V”は人としての性格を排除することで、登場人物しいては読者の理想を受け容れるキャラクターとしての器を得たのかもしれない。そう考えると「キャラクター」というものに関して色々と考えるところがないでもないが、長くなってきたの今回はここまでとする。


原書合本版(Amazon): V for Vendetta New (New Edition TPB)